映像情報論を振り返ってー感情言語のボキャブラリーを増やす

感情を表すボキャブラリーが足りないというのが、学生たちのぶちあたった問題だった。

僕は朝一番で感じたことをつぶやくのを二年以上続けているし、散歩をしながら感じていることを話すという実践もやっているので、感覚/感情を言葉にするのは得意だ。よく「何も考えていない、感じていない」という学生がいるのだが、それは本当は感じているけど気づいていないだけだと思う。自分の感じていることを感じて言葉にできるようになるには、どういう方法が有効か、課題を持ち帰ることとなった。

確かに継続していく中で少しずつできるようになってきた感じはある。友人とのやりとりで、感情語を学ぼうという勉強会がスタートした。最終的にはその方法をプログラム化してワークショップを行っていきたいと考えている。

とりあえずボキャブラリーが少ない段階の人には、感情語リストの中から、今の自分の感覚はこれに近いとか選択してもらうことは有効だと今は考えている。そのプロセスを経た上で、最終的に自分の感覚感情に合う言葉を自分なりに探したり作ったりするという段階に進むのがよさそうだとは感じている。


それ以外には、詩人のような言語表現ができるかがやはり重要だと思っている。自分自身ももっと言葉の表現を豊かにしていきたい。


別の友人との対話の中でフレイレのname the worldという考え方を知った。

『協同と表現のワークショップ―学びのための環境のデザイン』
p32 コラム 新しい世界を切り開く行為としての対話

「対話とは、世界を命名するための、世界によって媒介される人間と人間との出会いである」
「まだ名付けられていない「新しい世界」を見いだしたとき、「命名されていない状態」の不安定さ、曖昧さに耐えかね、つい既存のラベルを張りたくなるものです。でも「すでに名付けられた世界」のラベルを張り付けてしまえば、それはもう「新しい世界」とはいえません。名付けられないことの不安定さ、曖昧さを受け入れようとする者同士が集い、自分たち自身の言葉を使って「新しい世界」を命名するために言葉を交わす。そのプロセスこそが対話であり、また、本当の意味で「新しい世界」を切り開いていくことだという強い主張が、フレイレの言葉には込められています」

自分の感情とか感覚ってよくわからない。
その不安定さや曖昧なものに既存のラベルを貼ることに対する違和感がある。
だから言葉の表現を豊かにしたり、音や絵や身体表現などの表現で表そうとしたり。


よくわからないものを探るための言葉。
新しい世界、新しい世界の感覚をどう表現したらいいか。


今後も探求していきたい。



感情言語について学ぶ会を友人と少人数で始めました。

皆、根っこにある感情を表現して伝えることができないねっていう問題意識で集まった。
例えば、泣いている妻を観て夫は「泣けばいいってもんじゃねえだろ!」と暴力的な言葉を言ってしまう。
ここで夫の感情は何か。
表面的な行動や言葉に現れているのは怒り。
でもこれは、泣いている妻を観て、自分が悪いと責められているような、追いつめられているような気になって、
自分が否定されている、守らないとという不安からこの行動となっている。

自分の感情を感じて気づいて、それをストレートに表現すること。
ここで根っこにある感情を
「僕は泣いている君を観て、なんだか責められているような感じで、不安でどうしようもないんだ。」
と伝えられたらいいのになって。

あと、その時の感情とかってひとつの言葉では表せなくて、いろいろ混ざってるんですよね。
自分の体験を話しながらその時の感情や感覚について添付するリストからこれかなとかいいながらダイアローグする。なかなか面白かったです。


いろんな場所でのコミュニケーションや人間関係に関わる本質的で大事な問題だなって。
僕は自分の感じていることを感じて言語化するっていうことをやってきた。
この経験もいかして、自分の感情を表現するという方法を探求して、
周囲の必要としている人にも伝えていきたいと思ってる。


僕も自分の感覚感情を表現するためのワークショップをやろうと思っています。
具体的な内容はこれからですが、
とりあえず少人数で一緒に実践して学んでいくスタイルでゆるゆると始めてみたいと思っています。
興味のある人は連絡ください。